Art criticism : 静観と超越ーシーズン・ラオの造境視界


静観と超越ーシーズン・ラオの造境視界
The Tranquil Gaze and Transcendence: Season Lao’s Visual World of Creative Dimension

廖新田 国立台湾芸術大学芸術管理文化政策研究所教授 元国立歴史博物館(台湾))館長、オーストラリア国立大学名誉教授

萬物靜觀皆自得,四時佳興與人同。 
道通天地有形外,思入風雲變態中。 

-宋 程顥《秋日偶成》

虚実相生

         シーズン・ラオ(劉善恆)の丹下健三の建築空間における展示は、そのこと自体は虚と実との間、興味深い対話である。この独特な美術館の基礎造型は、無地材質を賢明に組み合わせた構成で、純粋で厳粛であり、「宗教的な」神聖さとカタルシスを感じさせる。芸術家シーズン・ラオの今回の展覧会のテーマは「虚室・生白」である。「虚室」は丹下健三の空間建築のコンセプトと共鳴し、その精神には「汎東洋」の自然哲学が含まれていることがわかる。「実」は「虚」の表層であり、「虚」は「実」の核である。外を以って内を為し、内と外は相通ずる。互いに表と裏の関係にあり、相生相克である。「虚的な思考」の意味合いで考えることが必要である。「虚空」は「虚無」ではなく、前者は積極的に身体に受容され行動を誘発するものであり、後者は消極的に退縮するものである。

        「虚室」は、中国語の「虚実」の発音に非常に似ており、読むときに換喩的な二重の意味を連想させる。「虚室」は、この空間で人の体と思考を新たな行動に導く。空になったら埋め、満ちたら取り除く…生生流転。 芸術家が創造した「虚室」の中、人々は自分自身を見つめ直し、身も心も整える。 観自在、自由自在に見る。 ささやかな波が立ち、澄んできらめく水の上にゆっくりと浮かび上がる美術館、「虚室・生白」のインスタレーション作品の中で水気と雲霧,柔らかさと硬さを象徴する特質が絡み合い、陰と陽を現すとも見えるかもしれない。老子の『道教経』には、「善は水の若し。水は万物を善く利して、而も争わず。衆人の悪む所に居る。故に道に幾し。(上善若水。水利萬物而不爭,處眾人之所惡,故幾於道。)」という言葉がある。老荘は硬直を克服するために柔らかさを提唱した。虚の空間は水と優しさのようで、自由を妨げることなく万物と最も密接に適合し、真、善、美の最高の領域の比喩である。偶然にもラオ氏の漢字名にも水と関係の深い「善」が入っている。

 

計白当黑、無為自然

        「虚室・生白」の第二テーマである「生白」は、ニース東洋美術館の真っ白な外観と呼応する他に、「汎東洋」の伝統芸術のイデアを示唆している。書道にもよく見られる、黒い線が交錯することで形成される不可視の白の空間が肝要な部分である。例えば、水墨画の「余白」は気韻生動のフィールドである。生命の節奏と美学の韻律の創造である。山水画において、余白は雲や流れる水を暗示しており、その「残す」という考え方は「気韻生動」を醸造する。「無」は「有」の源である。「黒を記す(當黑)」ことは簡単だが、(生白)白を生じるのは難しいーー前者は占有する、強勢的な作為であり、後者は揖讓し、環境全体を見て関係を思慮する。「計白當黑」は「前進するためにはまず後退する(以退為進)」という対策と態度であり、シーズン・ラオは作品の中でこういった境地を流用(appropriation)して昇華(sublimation)している。彼の「余白」と「気韻生動」は芸術家の主体に完全に支配されるものではなく、自然の縁起から生じる。画面上の天地は、どこかに実際に存在した「虚」と「実」の精神の交錯する瞬間である。その手法は「無為自然」という哲学観と内面的に共鳴するものである。

        余白は美的快楽(hedonism)の源の一つであり、カントの没利害性(disinterestedness)が発生すると、人間の脳は生存や認知のために働かなくてもよくなり、リラックスした状態が生まれる。たとえば、残蓮の景色に直面すると、目の前にある美しさが、利害を超えたいという欲求を生み、身体感覚を想像力に支配させる。シーズン・ラオは芸術経験が叙述的なプロセスで完成されるとは考えていない。芸術は瞬間の知覚体験である。アメリカの批評家ソンタグは、芸術の直接的な感覚は言葉で完全に置き換えることはできないと「反解釈」(against interpretation) を用いて指摘した。ちょうどドイツの哲学者ハイデガーの「現存在」(Dasein)現象のように、今ここにおける個人の存在認識である。この時、制作者にとっての最大の課題は、繊細で無色の白を低色調の中で連なり、通り抜ける要素として、作品画面、展示空間と介入する観客を瞑想の有機的全体に融合させることである。そして悟りの可能性を指し示す。英語のタイトルはこの層の意味を暗示している: An Empty Room Turns White for Enlightenment。ここでの悟りは、外部の刺激に依存するものではなく、禅のひらめき(epiphany)のように、内なる自発的な力からもたらされる。

 

純粋的な優雅

        世界は非常に大きいので多くの不思議があり、宇宙は非常に広大ですべてが含まれている。 複雑である必要はなく、簡静に立ち返ることで、この奇妙で広大な宇宙を理解することができる。肝心なのは心の在り方である。東洋、西洋哲学にもそのような主張がある。ひと欠片の石、一片の雲、一本の折枝は、太古の原野や空に私たちを導く。必要なのは媒介と想像である。これは静を以て動を制す美学的態度で、変化し続ける環境への対応である。イギリスの詩人で画家のウィリアム・ブレイク(William Blake)は、「一粒の砂で世界を見て、野生の花で天国を見て、手の中に無限があります。儚さは永遠です。」と言っている。 詩のタイトル「無垢の予兆」(Auguries of Innocence)は、「純粋的な優雅」(the elegance of simplicity)の概念に呼応する。両者は理論上、親和性(affinity)があり、純粋的なエネルギーを強調している。 かつて中国の唐の隠者であった龐蘊も似たような感情を抱いていた:「一つの考えは純粋であり、蓮の花はいたるところに咲く。一つの花、一つの世界、一つの葉、一つの如来。」言い換えれば、伝説の「桃源郷」 は遠くではなく、近くにある。頭を下げて見下ろすかまたは見上げるだけであるが、実はそれは「心」の変化なのである。

        前述の静謐優美な美学の世界に入るため、私たちには「注目」と「関心」が必要である。-目で周囲を見て回る、魂を通して敏感に体験する。これはある種宗教的な祭典のようなもので、心と体の状態を緩慢にさせ、物我一如に至り、集中することができる。シーズン・ラオの芸術作品は、まず私に「美学の先導者」の役割を特に感じさせ、鑑賞者を瞑想の視覚的世界に導く。純粋さと静けさに近い精神的な領域、そして東洋美学の現代視野である。鑑賞と思惟がありながら身も心も整え、超越性 (transcendence) がいつの間にか現れる。

        彼は造景と造境が得意で、「超越的な心境」を引き起こすためにー心と体は純粋的な優雅の中で静かに自分自身を観察し、美感を醸し出し遨遊することができる。「純粋的な優雅」は容易ではない。何故なら、少ないほど多く、一部がすべてだからである。老荘思想によれば、虚と白は万物の根源であり、「道生一、一生二、二生三、三生万物」彼の視覚装置は有機的で透過し、古代東洋との共通要素を見出す – 自然中の煙雲、絡み合った稜線、低階調の灰色調、鑑賞者が特定の空間で観視を始めるように誘導する仕組みである。 美学の探求は、鑑賞者自身にとって必須のプロセスである。シーズン・ラオの創作はこのような在処的な内省を徐々に善導する。 「間主観性」(intersubjectivity) の潜力を醸成し、体と心、精神と自然を緩め、置き換えることができる。

        この観点から、丹下健三のニース国立東洋美術館と、この空間で展示されているシーズ ン・ラオの「虚室・生白」は、調和、共嗚し、どちらも「純粋的な優雅」の特質を持ち、何度もじっくりと味わう価値がある。

 

天地、形外、態変

        「虚室・生白」では思考と観視を重視する。身体は美的な状態の体現である。実体は超越性がない。暗黒は占有することしかできない。虚空は無限をもたらし、白は生気を生み出す。これは著者が冒頭に「秋日偶成」を引用した理由でもあり、自然環境は人の感懷によって起伏し、外在世界は人の「心」に決定される;しかし人は宇宙の在り方を理解するには、「廻り道」しなければならない。宇宙は目に見える形を超えたところでしか理解できない。変化に直面しないと超越的な契機はない。物質的な欲望を捨てなければ本当の自分を明らかにすることはできない。華人文化的背景を持ち、日本の自然観と縁あるシーズン・ラオは、物我両忘という自然哲学を深く理解し、表現を行っている。

        シーズン・ラオの「虚室・生白」は「指差す月は月ではない」のようなものである。この展示の目的は物質的な展示ではなく、美感空間の啓発と発酵である。月を正しく指し示す指自体が本質の月ではなく、媒介であることと同じように、指は最終目的ではなく、方角に合わせて空高く浮かぶ明るい月を眺めることによって、この想像的な旅は完結する。シーズン・ラオは、アートは素材や技術の優位性を強調するものではなく、言い換えると「トランスマテリアル」な方法で作品の物理的な境界を越える芸術経験の追求であると考えている。虚、白、流れの中で美感を促成する者としての芸術家の意義は芸術媒介の開発であり、彼は鑑賞者をこの幽玄空間に誘い込み、息を吸い、息を吹き込み、生命が最初に鼓動する美しさを感じさせる。シーズン・ラオの美学は、美学の愉悦は簡約、空霊にあることを暗示している。聴覚的な無言が純粋で静かな気韻環境を作り出し、想像力をかき立てる。この展覧会の別格な芸術体験は私に、有機的な純粋性に立ち返ること、そして芸術の本質を探求することこそが芸術であると示唆した。




Season Lao Une pièce vide devient blanche pour l’illumination, 2023
France, English, Chinese, Japanese | ISBN : 9784865283815
Musée départemental des arts asiatiques
Adrien Bossard, Noritaka Tange, Hsin-Tien Liao, Koju Takahashi

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