Art criticism : 東洋美術館とシーズン・ラオ
アドリアン・ボサール ニース国立東洋美術館館長
東洋美術館とシーズン・ラオ
ニース国立東洋美術館でのシーズン・ラオの個展は、フランスの人々に彼の才能を明らかにする機会となった。この長期プロジェクトは、パンデミックの影響を受けながらも、2023年に実現することができた。様々な可能性のある空間に、芸術家自ら作品を設置した。彼の二週間の滞在中、美術館のチームは彼の創作過程に同行する喜びを 味わった。その創作過程は、ラオが自分自身を深く没入させた場所で詩を詠んだ一種の物語であると私は考える。フランスに来る前に、ラオは東洋美術館の建築家、世界的に有名な丹下健三(1913-2005)の息子で後継者である丹下憲孝(1958-)に会った。彼らの交流によって、ラオはこの場所との結びつきを強め、それを芸術的な提案に統合することができた。この個展は、ただ開催されただけでなく、精神を注ぎ込まれたものであった。美術館の建築は、まさに外観と内容が巧みに融合したもので、そのモダンなフォルムは、アジアから見た世界観の統合と、地中海に隣接する古代寺院へのオマージュの両方を含んでいる。この美術館に 東洋美術館とシーズン・ラオ アドリアン・ボサール ニース国立東洋美術館館長 入り探索すると、精神的な経験のようなものを感じることを、来館者からよく伝えられる。
美術館などの機関が「ウェルビーイング」 (well-being, 心身ともに健康である)という概念とますます結びつけられている時代において、丹下健三の大理石の建築デザインが革新的な存在であることは明らかである。入り口から美術館への通路は影と光を通して区別されており、世俗と聖なるものの境界を示している。過去25年間にわたり、当美術館は多くの現代アーティストを迎え入れ、彼らに自由に作品の展示を行ってもらってきたが、この美術館の空間とコレクションをこれほど深く理解したアーティストはほとんどいない。シーズン・ラオは表面的な作品の重ね合わせは行わず、その場とそこにある物から伝わることを深く理解し、寄り添う。それらのことと自らの芸術作品とを比較しながら、さらに拡大と共鳴が生まれていった。
文人精神は、千年以上にわたって極東における最も重要な文化基盤のひとつを構成してきた。今日、多くの人が力強く信念を持って、その一員であると主張している。その一方で繊細さ、関連性、優雅さをもって、それを体現している人もいる。シーズン・ラオは後者の一人である。彼はその精神を尊重しながらも別の地平に導くことで、文人精神を体現するだけでなく、革新することに成功したとさえ言える。
シーズン・ラオのインスタレーション、パフォーマンスの映像、写真など様々な作品が含む山と水、白と黒、虚と実は、文人たちの美学であり、その規範が世の中に尊重されている。例えとして、彼はあたかも楮紙、写真を媒体とした作品が古代の単色の山水画の自然な進化であるかのように、厳密な区別をすることなく、伝統的な背景と現代的な形式を自由に組み合わせて戯れる。もしそうだとしたら、徐々に変化しながら時代を超えて維持されていくのが伝統の本質ではないだろうか。シーズン・ラオの仕事の偉大な功績は、21世紀という時代を慎重に越えて、千年にわたる伝統への到達に成功したことである。
彼の作品は控えめな外観をしているが、根底にある考察は非常に複雑であり、中国の古典的な源泉と西洋の哲学的な思考から得た二重のインスピレーションによって養われている。この知的密度は、過去の学者のものと似ている。一方では博識を必要とする科挙に合格し、もう一方では頭を空っぽにし、身振りに集中して、時には当惑させるような単純な絵を数ストロークで完成させることができたのである。ここに極東の思想に深く根ざした概念が見られる。それは、単純さの幻想を与えるためには複雑さを消去しなければならないということである。この概念は、イタリアの芸術運動であるアルテ・ポーヴェラ(和訳:質素な美術)を彷彿とさせる。ジェルマーノ・チェラント(1940-2020)によれば、これは「体とその感知の真実性を形にするために、獲得した文化を自ら剥ぎ取ること1」である。さらに「質素な」という形容詞は、アントナン・アルトー(1896-1948)、カール・グスタフ・ユング(1875-1961)による精神分析、東洋哲学の影響を受けたイェジー・グロトフスキ(1933-1999)の実験 演劇の語彙から借用されている。1950年代と1960年代に出現した消費社会への反応としてのこの論点は、フランスの サポート/サーフェス (Support/Surface)、アメリカのミニマリズム (Minimalism)、日本のもの派などの他の運動にも見られる。
ここで思い出すべきは、シーズン・ラオは21世紀のグローバル化した文脈の中で、「アイデア、概念、原則のプール化2」から作られ、前述の運動によって行われた実験に よって強化された文人精神を伝えているということである。 したがって、彼の参考資料には、5世紀の中国絵画の理論家宗炳の画山水序、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(1889-1976)による「現存在」(Dasein) の概念、フランスの哲学者オーギュスタン・ベルク(1942-)の複雑な思想、あるいは李禹煥(1936-)の造形的で批評的な作品も含まれている。したがって、シーズン・ラオは、易経を利用してランダムな音楽を制作したアメリカの作曲家、ジョン・ケージ(1912-1992)のような多くのアーティストの発明と再発明を可能にし、今でも発明を可能にしている極東と西洋の間のこの実り豊かな行き来の一部である。さらには、仏教とヒンズー教の影響を受けた作品を制作したオランダ人アーティストのヘルマン・デ・フリース(1931-)、日本の幽玄の美学を取り入れたインスタレーションを制作したメキシコのビジュアルアーティストのボスコ・ソディ(1970-)、ゲルマンの視覚的世界に刻まれた表現主義的な作品を制作した中国の画家ラオ・フー(1978-)も例に挙げることができる。
極東の伝統に従い、シーズン・ラオは目に見える風景と心の風景の両方を融合し、作品を構築する。経験豊富な目でみれば、彼の写真には絵画の息吹とアニマが、インスタレーションには庭園の精神が宿っていることがわかる。中国や日本の何世紀にもわたる先人たちの作品と同様に、自然が彼の作品を育んできた。これと同じ自然は、ランドアートやエコアートなどの出現により、20世紀後半に西洋でも前例のない重要性を帯びるようになった。芸術と自然のこの関係を象徴する作品は間違いなく、1982年にカッセル(ドイツ)のドクメンタ7のためにヨーゼフ・ボイス(1921-1986)によって制作された《7000 Aichen – Stadtverwaldung statt Stadtverwaltung》である。今日、環境への責任という課題により、多くのアーティストが担っている国際的な芸術シーンの主要なテーマとして、環境が恒久的に確立されている。このテーマを取り上げているアーティストの例をほんの少し挙げれば、アヴィヴァ・ラフマニ(1945-)、ファブリス・ハイバー(1961-)、ヤン・ヨンリャン(1980-)などである。
彼の写真シリーズからもわかるように、自然はシーズン・ラオにとって重要な主題である。それは物理的かつ知的な基盤を構成する。彼は自然を探求し、経験し、観察して感情を捉え、それを作品に復元する。したがって、作品は経験した自然現象の記憶カプセルである。彼の美的探求は現象学的経験の印章によって特徴付けられており、与えられたままの現実を理解しようとしている。こうしてラオは、彼の日本での経験と彼が選んだ文献によって豊かになった華人文化的背景のプリズムを通して、自然を反映するイメージや形を生み出した。彼の《虚室・生白》インスタレーションで使用した霧は、彼の山岳風景の写真にも見られる。媒介が固定されているかどうかにかかわらず、シーズン・ラオは、山と水、人と天、虚と実の原則が息づく陰と陽の力で、生き生きと動く自然を古代中国的な考えに則って表現している。フランソワ・チェン(1929-)はこのように回想している。「……絵画が単純な美的対象となることを目的としない限りにおいての宇宙論の重要性。それは大宇宙のように再創造される小宇宙、現実の生活が可能なオープンスペースになる傾向がある3」。極東の思想では、山水画はそれ自体が世界であり、シーズン・ラオは同じ精神で現代的に拡張する創造をしている。
風景から庭園まで、極東では何世紀にもわたって紙一重の差しかない。庭園は人間によって改変されたかどうかにかかわらず、自然の要素を人工的に組み合わせたものである。この場所は、仕切り、開口部、通路を繊細に使用することで、視点や遠近感を表現している。それは山水画と同じ概念を動員した生活空間であり、思索のための媒体である。展覧会は「場にあるオブジェクトやドキュメントを見立てることによって、意味深く、感情を呼び起こすこと4」であり、この展示会でのシーズン・ラオの思考における、宇宙を表現する視覚的に不可欠な部分には、アジア作庭の間との共通点がある。作品配置のプロセスでは、アーティストが内部と外部、視点、遊歩、そして相互関係(complementarity)について考察し、丹下健三が丁寧に作った空間の状況全体に反映し実現した。ある意味で、この場で起った力強さは、アーティストが配置した庭園風景と宇宙の総合体とされた建築自体との共鳴による詩的な力であった。
シーズン・ラオの作品を見たアジア人は皆、「精神の故郷」を回想する。この感情は説明することが難しく、私にとって大切な場所に久しぶりに戻ったとき、あるいは馴染みのある現象を思い出させる現象を観察したときの圧倒される感情に似ていると思われる。ラオは旅の中で精神の故郷の断片を捉え、それを他の人に提示する。作家は、撮影された場所の名前をプリントに刻むことで、誰もが自分の中に持つこの故郷の普遍性を示唆し、鑑賞者に作品の中にそれを見つけるよう促す。このアプローチは、自分自身の日常生活の中で、この感覚を追求する動機にもなる。
したがって、特定のイメージや形式の神聖な次元を研究するシーズン・ラオの作品からは、偉大な精神性が発せられている。知識のある目でみれば、彼の写真の多くから発せられる道教のオーラを認識できるであろう。他の作品は、すべての執着から解放された状態への形式的かつ概念的な言及である《無相》(Signlessness)など、仏教的方向性が顕著に表れている。さらに、この作品とジョン・コネル(1940-2009)による仏教の神々の複合造形物(石膏、タール、紙、ワックス、青銅、セメント、木材、または金網)との間には、実際の親和性がある。しかし、シーズン・ラオは、素材にガラスを選択することによって、彫刻に対して興味深い外観を与え、見る者に観察を深めるよう促す。アジア美術に遍在する卓越した仏教モチーフである蓮は、掛物の形式で吊り下げられた写真の主題となっている。この純粋さの象徴は、アーティストが作品の中で使用した仏教の概念へのもうひとつの言及である。2022年から、このシリーズは福岡の「方丈板倉」に設置された。この建築は、無常の概念を反映した鴨長明(1155-1216)の草庵からインスピレーションを得ており、シーズン・ラオの作品と共鳴し、その意味を深めている。
シーズン・ラオは、《虚室・生白》インスタレーションのシリーズで、匿名の人物を切り株に座らせ、思索のサポートとして、自然の営みにより斜めに寸断された別の切り株を設置した。大阪での実践では、仏像作品、風景作品と一緒に見立て、構成した。またニースでの実践のように、屋外の水辺や植生を背景にしている場合もある(アーティストの心の中では同等に見えている)。そして空間中心から霧を発生させ、映像として記録を残す。この見立ては、虚無の空間、部屋を通じて、人間、自然との関係を比喩 (metaphor) または喚起している。山水画での人間表現 (human representation) にもよく表されている。ここでは、現代版で再解釈された チャン仏教、つまり禅である。アーティストは瞑想に向かう観客に同行する。人の座った切り株や設置した作品は、 そのまま展示され、ビデオも提示される。後者は、物思いにふける瞑想の可能性を説明する一種の取扱説明書となっている。私は、このラオの作品が、インスタレーションの前に座って瞑想していた美術館の訪問者たちに、連想をかき立てるような効果をもたらしている光景を見ることができた。「人間の心が自分自身と世界の鏡となるとき、そのとき初めて生きる真の可能性が始まる5」。シーズンラオのおかげで美術館は、自然から始まり、自分自身の人間性を探求するよう促す、精神性を帯びたこの美学を一般の人々と共有することができた。